概要
『野峰略記』(親王院蔵)と『野峰風土記』(日野西眞定蔵)の二部は、ともに文化六年(一八〇九)の春三月に記された乗如の序文がある。ただし、題名の関係から「野峰略記序」と「野峰風土記序」と名付けられている。『略記』の文末には「南山沙門乗如」とあり、その下に乗如の印鑑(朱色)が二つ押されてある。字体から乗如の直筆と考えられる。これに対し、『風土記』の文末には「乗如識」とあるだけで、字体は全冊通しての同筆で、専門職人の手によるものと考えられる。
『野峰風土記』第一巻の「壇上諸伽藍・奥院及ビ五院堂社等之図」には、大晦日に検校が、学侶方の本山青巖寺(検校の住房でもある)から壇上の明神社に向かっての、奉幣の行列の図が描かれている。役名までもが記入された詳細なものであり、専門職人の手によって描かれている。第三巻の「大曼荼羅供之図」にも各役人名まで書き込まれて描かれている。
今回、検校奉幣の図を取り上げ紹介することにしたのは、江戸時代の金剛峯寺修正会を理解するためには重要な資料であると考えたからである。現在では大晦日に、龍光院から大松明一本と御幣束が明神社に奉納されているだけである。しかし、江戸時代にはこれに引き続き、検校の奉幣もあったのである。